キリスト教では、信じるだけで天国に行けると聞いたのですが、そんな虫の良い話があるとは思えません。やはり努力は必要だと思います。

聖書では、天国には、イエス様の十字架を信じるだけでいける、よい行いは必要ないと記されています。
 私もこの話をはじめて聞いたとき時、「そんな旨い話があるわけがない、天国に行くには努力や良い行いが必要だ」と笑いました。
  でも、もし、努力で天国に行けるとすると、「どれだけ良いことをすればいいのか?」という疑問がわいてきます。つまり、基準がはっきりしないことです。
 でも私たちは自分で基準を持っているのではないでしょうか。たとえば、
 「私は善良な市民です。もちろん完璧ではありません。人に迷惑もかけてもきました。でも人殺しをしたわけではなく、大きなうそもついていません。新聞に出るようなことはしていません。一応、常識の範囲内だと思います。だから天国に入れると思います。」と、どこかで自分は天国に入れると決めていないでしょうか。
明確な基準がないのですから、自分で作るしかないし、それで納得するしかありません。