人間は誰が造ったのでしょうか。

新聞もテレビも、教科書も学者も、人間はアメーバのような下等生物が進化し、偶然にできたのだと言います。

 もちろん私もそのように考えていました。「人間は偶然にできたのである。」。

 しかし、「偶然にできた」、とすると、偶然なのですから、人間には生きる目的も、意味もありません。

また、猿が進化したのであれば、所詮、猿なのですから、人をどれほど殺そうとも、弱い人をいじめようとも関係ありません。

しかし、新聞も、教科書も、学者も、人殺しをしてはならないし、いじめてはならない、と主張しています。これは「人間は猿ではない」と考えているからではないでしょうか。

 このように「人間は猿だ」といいながら一方で「人間は猿ではない」と矛盾しています。

 聖書は、創造主である神が、地球や太陽を創り、人間をも創ったと記しています。

 創造主なる神を信じることなどこの科学技術の時代に愚かなこと、子どもだましでしょうか。

 しかし、これは非常に大切な問題です。

もし、猿なら、人間は生きる価値は猿ほどにしかない、ということです。しかし、もし、神が人間を創ったのであれば、人間は神の作品であり、ひとりの人の価値は地球より重い、ということになります。

 専門家の中にも神のような方「サムシング・グレート(何か偉大な方)」が人間を創ったのだ、と考えている方がおられます。

 

是非、遺伝学者の主張 をご覧ください。

 

 村上先生は「これだけ精巧な生命の設計図を、いったい誰が、どのようにして書いたのか、と問うておられます。

先生はそれは「サムシング・グレート(何か偉大な方)」であるとされています。

私はこの「サムシング・グレート」こそ聖書の創造主であると信じています。

 神などいるものか、と一笑にふすこともできます。しかし、神の存在を認めることと、科学技術は矛盾しない、むしろ、神の存在を認めることが現実を無理なく説明できると思います。

 そして、もし神によって人間が創られた、のであれば、自分も周りの方々も、尊い神の作品、ということになり、生きる意味、尊厳が必然的に認められるのです。