私はどのようにキリスト教信仰を持ったのか…

クリスチャンは日本では非常にまれです。私の場合も26歳までクリスチャンに出会うことはありませんでした。26歳の時私は、落ちこぼれ、皆にもうついていけない。だから、どこでもいいから逃げたい。たまたまアメリカにつてがあって逃げた、というところです。そこでクリスチャン、それも日本人、それも牧師一家に初めて出会いました。その時の思いは「キリスト教を信じている日本人がいる。それも牧師。そんな職業があるんだ」という驚きでした。

 

ところが、この牧師先生はとてもよい方でした。だから何とか全うな人生を生きてほしいと思い、次のようなことをしました。

その1キリスト教は一神教で、自分だけが正しいと考えている。だから、キリスト教国はいつも戦争をしている。その点、仏教は和を重んじる、平和な宗教だ。 

その2神などいるわけがない。いるなら見せてもらいたい。

その3キリスト教だけが正しい?では江戸時代の日本人はどうするのか?

その4神が天と地を創った?アダムとエバ?おとぎ話でまるでお話にならない。

その5神は愛だ?では、どうして世界中こんな悲惨なことが起きるのか?

 

「牧師なんてやめて、まじめに働いたらどうですか」と言いました。ところが、いっこうに考えを変える様子がありません。けれども、反抗する私を嫌うどころか、いつも穏やかでした。

何度も話しているうちに、その穏やかな人柄、仲のよいご家族の姿を通して、幸せな生き方であることが分かってきました。「キリスト教も悪くないかも?」と思い、また、人間の幸せって何なのだろうと深く考えるようになりました。

 

その頃の私は、就職に出遅れ、26歳なのに皿洗いのアルバイトをし、どんな仕事に就いたらいいのかわからず、私の将釆はどうなるのだろうか、と不安と劣等感でいっばいでした。その上、私は、極度の心配性で、将来が確約されていないと、踏み出せない。そんな人生はありえないのに、それを求めていました。子どもである、といわれればそれまでですが、それが私でした。

 

そんなとき、聖書の中のいち文に目が留まりました。

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ぱすことができますか。」       (聖書のことば)

 

当たり前のことを言っているようですが、ここまではっきりと言えるのは人間じゃないと私は思ったのです。この時、はじめて、聖書のことばを信じていいのかもしれないと思いました。

そうこうしている時に次ぎの聖書の記事に出会いました。

イエス様が弟子たちと旅をしていた時、道端に盲人がいて、物乞いをしていました。弟子たちはイエス様に「彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか、その両親ですか」という大変失礼な質間をします。

イエスは答えられます。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」そうして、イエス様はこの盲人を癒されるのです。

ここでイエス様が、はっきりと因果応報を否定されたことが衝撃でした。もちろん因果応報の考えがすべて誤りではありません。薄着をしていたら風邪を引くことは因果応報でしょう。でも、すべてのことが因果応報で割り切れるでしょうか。そんなわけがないと私たちは薄々感じていても、ハッキリと否定も肯定もできないのではないでしょうか。

しかし、イエス様はここでハッキリと語っているのです。私は、イエス様は真理を語っていると思いました。

そして、心配性の私に最もよい知らせとなった聖書の記事がありました。それはイエス・キリストを信じるならば天国にいける、ということでした。

 

神は実にそのひとり子をお与えになった(キリストを十字架につけて殺された)ほどに世を愛された(人間を愛された)。それは御子(イエス・キリスト)を信じるものがひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つ(天国に行く)ためである。(ヨハネ3:16)

キリストを信じるなら、天国に行き、永遠に生きることができると記されているのです。もちろん、初めから信じられたわけではありません。3ヶ月間本当に悩み苦しみました。信じるだけで救われる、そんなうまい話があるものか。日本人の私がキリスト教を信じるなんて屈辱だ。男のくせに信仰を持つなんて恥ずかしい…などなどです。

しかし、私は、いつ死ぬかわからないことがとても不安でした。と言いますのは、当時、70キロ、80キロオーバーのスピード違反で5回も捕まっていたからです。そこで「もっといい宗教が出てきたら、そちらに乗り換えてもバチは当たりませんよね」と恩着せがましくたずね、「当たりません」という返答に安心して?信じることにしました。

今、考えてみると実にいい加減な信仰であったと思いますが、とにかく聖書の創造主を信じる決心をしたのです。こうしてミイラ捕りがミイラになりました。その後、聖書を通して創造主の存在、自分の罪深さ、イエス・キリストの十字架の意味、人生の目的、生きる意昧、などを知っていきました。

聖書には実に信じがたい事柄が出てきます。ですから聖書を体系的に学んだ方から説明を受けることをお勧めします。(これらについては、トップページ、よくある質問をご参照ください)

聖書はただの本ではありません。もちろん分からないことは出てきます。しかし、確かに真実だ、と思われることばが、ちりばめられています。

もちろん、信仰をもったからといって生活に問題がなくなるわけではありません。私たちはいつも不完全、工事中です。

けれども、心の奥深くに、揺るぐことのない基盤、よって立つことができる、絶対に大丈夫な土台、今は最悪でもやがては天国、という平安があるのです。

この聖書の良い知らせを、皆さんにも是非知っていただきたいと思います。

原 敏夫